「見えない努力」は見てもらえない

 日本人の美徳とされるものの一つに「見えない努力」というものが有りました。(過去形)
 競争社会でアウトプット至上主義の現在では、それ自体は無価値なものとして扱われる傾向にあります。


 裏でどんなに努力をして質の高い成果を出しても、針の先ほどの欠陥を突かれて、それこそ針小棒大に突っ込まれることも多々あります。
 自分がどれだけ頑張ったかは自分しか知らないし、普段どれだけ頑張っているかを分かってくれるのも親しい友人知人と家族くらいです。赤の他人に「それくらい、分かってよ」と言うのは無理な話ですよね。
 でもでも、正直な気持ちを言えば、何も知らない人に自分の努力を否定されて、ムゲに踏みにじられるのはツライです。



 さて、こういう状況においてどのような態度を取れるかで、その人の器が知れると思います。


 自分自身で、『私はこんなに努力した!! 悪気も無かった!! だから悪くない!!』等と、自分の気持ちに正直に主張するのが大人の態度でしょうか。
 私は、そうは思いません。
 なぜなら、自分を批判した人の「心の裏側の痛み・辛さ」も 外側からは見ることが出来ないからです。それもまた「見えない」以上、その人が「どんな気持ち」で「なぜ」批判してきたのかも、容易には推し量れません。ひょっとすると、その人は自分以上にツライ思いをしているかもしれません。


 自分の気持ちに気を取られて、相手を思いやることが出来ないのでは、「大人の態度」とは呼べないでしょう。
 でも、ここで「大人の態度」を取ることは、大変難しいものです。分かっていても、なかなか出来ることではありません。



 だからこそ、自分の努力の結果を否定されても それに対する己の非を認め、進んで謝罪できる人を、私は尊敬します。
 自分が傷ついているときに相手の痛みに配慮できる、器の大きさに憧れるからです。


 私自身そういう人間になりたいと思いますし、自分の友人知人がそういう面を見せてくれれば、我がことの様に誇らしい気持ちになります。


 素晴らしい心意気に感謝を。